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2011年11月19日

後世の勝沼に何を伝えたかったのか


明治のはじめ、フランスからワイン醸造技術を学び勝沼に伝えた高野正誠と土屋龍憲

2人は後世の勝沼に何を伝えたかったのか。


孫のあたる高野英夫氏と土屋勇氏から話を伺いました。

平成23年11月18日(金) つぐら舎にて


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2011年06月26日

明日への伝言 〜小佐手の歴史と昭和の合併〜

6月21日(火)かつぬま文化研究所にて

阪本 晋氏

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2010年11月02日

明日への伝言 〜立正寺と休息の歴史〜



休息で現役農業を続ける丹沢正彦さんをお招きして幼少時代の勝沼休息地区の様子、戦争体験、そして次の時代に伝えたいことなどをお話しいただきます。

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平成22年11月11日(木)
休息自治公民館於いて

高安さんから休息のこと、歴史、幼少時代、戦争のことなど話してくれと言われました。話が飛びとびになるかもしれませんが、この地域の成り立ちと私の子どもの頃の話からしたいと思います。

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2010年10月10日

明日への伝言 〜常在戦場〜


今回は元勝沼町長佐藤嘉明氏です。
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今日の“ぶどうとワインの里勝沼”の礎となったおひとりです。

10月14日(日)
釈迦堂博物館
pm7〜
投げ銭にて

氏の座右の銘「常在戦場」

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あすへの伝言 10,10,14 至 釈迦堂遺跡博物館 ゲスト:佐藤嘉明
・ 司会:今日のゲストは佐藤嘉明さん。日川中学を昭和20年に卒業、江田島の海軍兵学校に入り終戦を迎える。その時原爆も体験した。昭和35年から町議を3期務め、昭和45年から勝沼町の町長として町政の運営にあたり、抜群のセンスで指揮を執られた。役場の職員が語っていたが「残業をしていると、町長がヤクルトを席に置いていったが、それはもっと働けということか、そろそろ帰れということか悩んだ」という。5期20年町政を担った後、農協の組合長として農業振興に活躍、常在戦場を座右の銘としている。

・ 佐藤:町長を辞めてから20年となる。農協の組合長を2期務めさせてもらったが、すでに10年以上過ぎている。昭和3年生まれで82歳となり、こうしてお話をするのもおこがましいが、人間の悟りは何らかの形で自己実現をしていくことあり、自分が納得していくことだと思っている。せっかくの機会なので話をさせていただくので気楽に聞いてもらいたい。
・ まず、戦争体験であるが、直接戦場に行ったわけではないけれど、戦時下の自分の生きた体験を話したい。昭和6年満州事変があった。12年に支那事変が起きた。中国大陸に大きな戦いが広がった。昭和16年12月8日に大東亜戦争といって、第2次世界大戦が始まった。小学校に入ったのが昭和10年なので、ちょうど6年たち小学校卒業した年の12月8日に大東亜戦争が始まった。小学校の時代から戦時下で変化があった。小学校の国語、算数の本はわたしどものころから変わった。
・ 小学校の時には戦争が迫った記憶はない。昭和16年に日川中学に入学したころから、状況が急を告げてきた。中学2年から勤労奉仕があり、勤労奉仕に出かける状況となり勉強はおろそかになった。印象に残っているのは原茂園の東林山の傾斜の畑に草かじりに行ったり、等々力の金井勉先生の実家の畑に稲刈りにいったことが印象に残っている。
・ 中学3年ごろから中学校にもそれぞれ将校が派遣され、軍事訓練が始まった。上級生ほどたくさんの時間を軍事教練にとられた。3年から始まって、4年生の初めには、北富士に三泊四日の実践訓練に行った。たまたま4組の組長であったため号令を掛けるとかした。サーベルを吊るすのであるが、下に付いてしまった。最後は山中湖畔で戦闘訓練をして宿舎に帰った。
・ 中学4年では学徒動員に行って、神奈川県の寒川町の相模海軍工廠に行った。横須賀と相模に2組づつが動員となった。相模海軍工廠では、そのころは爆弾を作っているので戦時中であるので、リベリットガス弾を作っていた、焼夷弾の薬きょうを詰める仕事や毒ガスを吸う路盤を紙ですいた。
・ 終戦直前に昭和19年7月に学徒動員に行って、昭和20年2月に動員から帰った。リベリットガスで障害を受けた人が同級生にも出たが厳しい仕事であった。その3月に海軍兵学校に入校した。
・ 海軍兵学校の生徒は海軍生徒である。兵曹長と少尉学生の間に生徒という軍隊の階級があり、その地位を与えられていた。海軍では本科になる学校で厳しい内容であった。海軍は厳しく、起床から終身まで、寝るには2分30秒以内でやらないと突き飛ばされた。学校の内容は、午前中は一般学から上級生になると兵学まで進める。当時は短縮され学校の内容もあったので、午後は戦闘訓練で探偵、拙攻、匍匐前進の教練を行った。

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・ 当時は空襲がひどく艦載機が時々爆撃に飛来した。広島の江田島湾は日露戦争では連合艦隊が全部入ったくらいの大きな港であったが、すでに燃料はなく停泊して乗り上げていた巡洋艦が2隻いて、底が付いているので艦載機の攻撃を受けても沈まなかったが、2日間の攻撃で横にしてしまった。学校は目標にならなかったので被害はなかったが厳しいものがあった。履修時間は6時から8時、課題を解決するのに精一杯で予習ができるような状況ではなかった。学科試験によって、次の学級の順位がきまり、最終的には乗る船の配分が決まる。履修時間に覚えないと覚える機会はない。それで試験をするので居眠りもしていられない厳しい状況であった。
・ 広島の原爆投下も江田島で経験した。20年8月6日午前8時15分、その前にB29が2機偵察に飛来し警戒警報が発令されたが、気にしても何もできないので日課を消化していた。8時30分の連兵場で朝の集会に出るときに原爆が破裂した。状況としてはピカッという閃光があり、それからドスンという爆音があった。その後爆風がきて兵舎も江田島の中では新しい建物であったが食堂のかわらが飛び散ったりした。初めて空襲警報がなり非難する横穴に入った。
・ 広島の原爆はすごいもので、科学の反応であるので爆発したものが散らない、きのこ雲のなかで渦巻いており、3日間このきのこ雲が消えなかった。爆心地から8里から10里離れていたので被害はなかった。26万人が一発で亡くなった。むごいものであったと思う。8月23日に広島から復員したが、駅は何もなく線路だけあった。ホームだけがあり、そこから帰ってきた。原爆は後遺症が残り、もう草木は生えないといわれていた。そうした状況であった。
・ 終戦になって8月23日に復員した。原爆を近くで見たが、今になっても原爆は問題視されるが、これを使えば地球は滅亡である。被爆は絶対使ってはいけないと思っている。
・ 何を得たか。わたしはわたしなりではあるが、海軍兵学校を受ける動機が純粋に戦争化の教育を受けたので、誰か太平洋戦争が重大な段階となり敗色が見えてくるとピンチになった国のためになりたいと考えた。水泳もできなかったが、海に憧れており海軍がいい、海軍の優秀な指揮官になり、太平洋戦争で国のために尽くしたいという考え方であった。
・ 一生懸命はいいもので、試験は体格検査が19年5月に甲府一高で行われた。戦時中なので体格検査も4段階まで下げて、わたしは小さかったが身長はどうやらあったが、体重がない。42キロなければならないのに40キロしかない。チェックで終わりである。
・ たまたま下士官の教員が身体検査をしたが、「ともかく下痢を一週間している」と話したら、「そうか」といって通った。学科試験は一週間行った。一週間の最後に試験官の面接、口頭試問まで残った。「何で海軍兵学校を」という質問に、「優秀な指揮官になり国のためになりたい」と話した。学科は合格圏内であったが「体はひ弱だから鍛えろ」といわれた。合格したいという一生懸命は相手も動かすと感じた。
・ 終戦になり、経験を積む中で感じたことは、兄弟は女が2人で男は一人だけ。海軍兵学校を受けるのを親は反対した。2〜3日不貞寝して学校にも行かなかったが、19年4月にぎりぎりで間にあった。親や親族からは、当時技術が必要であるから東工大で進んだらどうかどうか、と言われたが断って海軍へいった。敗戦の中で人生の頓挫を経験したのである。
・ そんな中で「一番大事なのはなんだろうか」と考えるに、やはり政治であると認識した。教育も経済も必要であるが、政治がしっかりした方向に行かないと経済も教育もよくいかないと思った。希望により静岡高等学校への編入学ができたが、今度は親が反対し「家に居ろ」という。学校には金も掛かるので独学も難しく家業にはいった。
・ 政治が大事だというのは、敗戦の中から強く感じた。青年団運動、大和村の青年団長を務めた。いかに動くか、反省も踏まえ悩んだ時代である。18歳で帰って来て、24歳から25歳まで、当時は革新政党も勢いの良い時代であり勝沼でもそうであった。
・ どこの政党も納得いかない。政治も大事だがどうしたらいいか、結局、政治は自らの生活闘争の中から政治の動向を持つことがいいと思った。政党の拡張となり政党はよこしまな考え方がでてくる。生活闘争が重要であり政党は使えばいい、こんな人生観を持つようになった。
・ 昭和29年に深沢が勝沼町に合併した。深沢は養蚕地帯であった。林道は県道になり、町道が分断されながらあり幹線道路であり荷車の通る道であった。えらい坂があり10月から3月くらまでは、栗原、野呂、矢作から、薪や燃木を取りに深沢に来てにぎやかな状況であった。荷車を引いてたくさん撒きを買いにきて、山を買って炭は専門家が焼いた。いまの観光ではないが、それが生きる道であった。養蚕をやりながら山を分けて少しずつ売って生活のたしにしていた。深沢では山をもっており生活を支えていた。
・ 燃料革命となり昭和30年以降はほとんどなくなった。昔の勝沼の様子であるが、江戸時代、勝沼に薪を取りに来たころは深沢郡といったこともあり、燃料として薪が主体であった。
・ 深沢分校で学校4年まで学び、5年6年と親戚の家から勝沼小学校に通った。柏尾堰という川があり、飲み水は井戸、日川断層で水源を求めるのは大変だったが、洗濯等をするには堰をつかっていた。二宮尊徳の碑が撤去された記憶がある。戦争の影響であったと思う。
・ 上水道は昭和11年に作られた。柏尾堰から作ったが山本修作さんという町長が深沢のトンネルからでた水を菱山の国鉄の駅のほうに引いた。それが裁判になり山本さんが勝ったという歴史もある。既得水利権は存在している。
・ 勝沼の水利の状況であるが、岩崎地区では大口沢からの水を水源にしている。足りない時は日川からポンプアップで岩崎水道に入れた。下には次郎堰、太郎堰、等々力堰があり日川の了解を得ないとポンプアップもできない。京戸川から引いたらどうかということもあったが一宮の水利権がありなかなか了解が得られないこともあった。結局、鬢櫛川に深井戸を掘った。絶対大丈夫と説説明されたが、一定の量を吸い上げると砂を吸うようになりだめになってしまった。買い換えても吸い上げる量が多いとすぐ砂が出る。それに比べて表流水が安定しており菌の削除もできた。深井戸は硝酸性窒素があり等々力、菱山は使えなくなった。
・ 鬢櫛川の水利権であるが、小佐手、休息、上加納川、日川まで水路をもっており、了解をえられないと取れなかった。菱山は困った。深井戸もほれない。考えたのは鬢櫛川から中原の間藤堰である。この堰の水利権を了解をとることに心がけた。牛奥の水利権の譲渡をもらうのに、鬢櫛川を越す水路が壊れて実際は行っていなかったが、ゴルフ場の開設時であり1千万円で了解をとった。間藤堰の水利権を中原と菱山、小佐手、山、休息まで行っていると思う。水の問題は解決した。
・ 20年間で一番大きな仕事は中央道勝沼インター、勝沼バイパスの開通であったと思う。昭和43年、44年と議長であった。高野義男町長と中央道バイパスの対処について課題とし方向付けをしてきた。これについては、45年から町長となったが、45年3月に大月、勝沼の路線が発表されたがフルインターではなく岩崎の地権者会が反対。インターチェンジについてはフルインターとし本線は山付を通り平和の塔までうまく高速の流れが来るように連結するよう要望を行った。
・ 町長選挙は4月5日であり、わたしは5月3日付けで課題を残す中で就任した。この問題は与野党一丸となって団結した。国鉄のJRの設置計画で勝沼は後悔した。明治30年、塩山に実業化がいたという話もあるが、日川左岸から右岸をとおり勝沼小学校に勝沼駅を作る構想もあったが、明治36年に中央線が開通した当時には関心を持たなかった。それから甲州街道29宿で繁華な町として勝沼、祝は江戸文化で県下でも一、二、峡東でも賑わった町であった。祝橋、野呂橋を一宮も掛けて、勝沼、祝につなげた。改修工事にあたり、一宮に昔から橋を作って勝沼、祝に来たから全額地元負担金をといってOKを出した令指をしている。
・ 熊野橋も塩山市長と話をしたら全額地元負担で、普通なら川の真ん中で分けるが負担してもらった。勝沼・祝が経済の中心だったと思う。それで国鉄の誘致をしなかったのかよく分からないが、塩山駅が出来て経済圏が塩山に移っていった。大正2年に10年送れて請願駅として勝沼駅が設置されたが、経済圏は塩山に移った。
・ 勝沼インターは歴史的経験を踏まえる中でフルインターでないといけない。まちをあげて意見集約し運動を行っていった。当時の知事は勝沼は立派なぶどう園でありフルインターで畑を潰すのはもったいないという意見であった。就任早々大きな課題であった。
・ 当時は中尾さんの支持者であり勝沼の責任者で事務局も担った。中尾さんに話をしたらおれはだめだ、といわれ断られた。知事は政治の野口系列であり抵抗があった。困ったわけであるが、行政を考えると所属の県知事が納得しないものを町村ではできなかった。賛成はしなくても反対だけは何とかしなければいけないということで、厳しい状況であった。
・ たまたま考えたところ、ある事業家がおり田辺知事の応援をしたという経過で何とか郷土の実業家に力を借りて反対を表に出さないようにということで相談した。体を張っても命がけでフルインターにという意見であるが、知事が賛成してくれないので何とかいい知恵をというと、「よしよしで電話をする」と知事さんが出て、勝沼がこういうことで町長が来て相談していると話をしていただいた。知事もなんとか協力をと談判をしてもらった。町長がお願いにいくからよろしく頼むという話をしてもらった。国会では金丸先生も運良くいて、ぜひフルインターでと話をしたら、「やれるだけやろう」と。
・ 八重洲から国会議事堂までお願いにいった。一週間に一度東京に行き所轄の省庁をめぐった。岩崎出身の志村さんという毎日新聞の記者からいいことを聞いた。高速道路は高速道路法という法律で作っている。高速道路は20キロにひとつインターを作ると法律で決まっている、ということで道路公団に陳情をした。
・ 大月から一宮境までは23キロだ。勝沼にインターを造ってくれなければ、勝沼は荷車で通ってもらうと話をした。結局11月に入り、高速道路課長、道路局の次長に勝沼の三項目の要望は簡単に聞いてもらった。
・ そこで喜んで帰ってもいけない。建設に前向きに協力しないといけないということで、すぐに金丸さんのところに行き、陳情を出すので正式に国会の会議室でもいいので返事をいただきたいといったら「俺が信用できないか」と言われたが、未熟で非力なので陳情に返事をもらわないと協力の体制は作れないということで、早速議員団、地権者会、に陳情に行ってもらい正式に答えをもらえるようになった。昭和45年の11月であった。
・ 設計協議を行い、52年12月にインターができバイパスも同時に完成し53年から供用開始した。57年までの4〜5年の間反対もあり整備が延びた。この間、毎日のように勝沼インターとテレビで宣伝してくれたのでいい印象を残したのではないか、全線開通が遅れたのもひとつの定めだと思った。
・ もうひとつはワインのことである。日本一のフルーツタウン建設がわたしのスローガン。勝沼は盆地の中でも気象状況にもあるとおり寒暖の差がある。朝低く昼は甲府と同じになる。は笹子下ろし、山風、気流で夜が冷える。摂氏18度以上になると植物の浄化作用がすすむ。甲府では甲州を作ってもつるっぴけになる。夜冷える作用でうまく醸成できるということだろう。日川断層の複合扇状地の土地であり、地勢では日本一の状況であろう。山梨大学の横塚先生にぶどうの丘で話をしたが、盆地の相対を含めても入れるが、糖度と酸度のバランスがいい、雨が少なく、糖度と酸度のバランスがいいことに根拠がある。北に行けばいくほど酸度が下がる。ブランデーにはいい。西に行くとあまり食感はいいが、酸度がないので熟成ワインができない。甲府盆地は日本一の産地だと聞いた。そうしたことで、ぶどう文化の中でぶどうつくりとワインは大事な産業で、大事にしていかないといけない産業だと強く感じて取り組んだ。
・ 苦労したが従来ぶどう生産者と醸造化は仲が悪く、業者はブドウをほしいくせにほっかぶり、ぶどうの高いときには生産者が一粒たりともやらない、という同じ土俵でぶつかった。ぶどうの質が条件の70%を占めるので、いいぶどうのないところにいいワインはない、その理解を得ることをしないといけないとして、54年ごろから果樹振興会を作り、農業生産者と行政が一体となり課題を解決していく体制をとってきた。


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・ フランスのボーヌ市とは日本一の産地としてのイメージを高めるため、ボーヌ市は産業革命の中心、民主主義の中心としても価値があることから姉妹都市の締結をした。51年9月18日である。53年が高野・土屋先生の記念事業が行われ、ワインカプセルもぶどうの丘に埋めた。明けるのは100年後としているが、ちょっと長すぎたかなと思っている。
・ 甲州種の原産地認証制度を54年の10月に議決。55年から原産地認証ワインの認証を行った。大蔵省はじめ、山梨県、国が反対し起動にのらなかった。苦労したが税務署長、国税所長は賛成してくれてスタートした。一部ブレンドにも考慮したが、けちをつけられたくないので甲州種100%でスタート、いい甲州の奨励も進め、18度はキロ300円で取引をお願いした。100トンあまりで認証ワインを造ってきた。三枝町長の末期で廃止し交渉制度にした。実際の取引はされないようになった。
・ この見通しは大手7社のメーカーが全国的なシェアの中で日本の原料ぶどうの価値を認めない形をとってきた。それに抵抗してきたのは勝沼町であった。最後になってみると大手は入らなかった。中小企業で100トンを搾った。20年続いたが、大きく発展しなかった。当時知事にも要望したが理解と実践ができなかった。大手7社が妨害したと感じている。
・ 原産地認証、日本の国産ワインは輸入原料を動かせば国内産だという形になっていた。ぶどうが見当たらない神奈川県が日本で第二位の生産地、平成15年の統計である。神奈川のメルシャン藤沢工場がワインの生産地。岡山はサッポロワイン。
・ サントリーは外国のワインの味を日本に植えつけてボトルワインを輸入していった。いまになると藤沢、岡山は価値観として消費者が変わっているのでコストは同じくらい掛かる。まずくなり手を引く形になってきているのではないかと思う。
・ これからは、人間の健康、価値観は生まれたところの自然の食べ物、飲み物が価値があると思う。依然として甲州ぶどうをはじめとして日本のぶどうで搾ったワインは価値があると思う。
・ これからはわからないが、社会全般で入れることは次回を迎える中で、産業、人間の生活が変わるのかわたしにはわからない。どういう風にかわるのか、IT時代が産業の何を及ぼすか読みきれないのである。
・ 次の時代に何を伝えたいか。江戸時代前からぶどうという産物を宿場町として江戸文化を吸収してくる中で、県内でも高い文化を築いてきたと思う。真摯な気質にも富んでいる住民性ももっている。日本一の果樹の産地としての立地条件も備えているので、ぶどう農家を守っていってほしい。
・ IT時代がどうなるか。しっかり現実を把握する中で堅実に良くなるものを見つけて生きてほしい。
・ 質問:ワイン産業というと聞こえがいいが、ぶどうがあったからワイン産業があると感じている。山梨のぶどうで世界に出て行く動きもある。どう思うか。
・ 佐藤:ワインが売れないということで、輸出を考えて昭和55年7月19日トロントに950ケースを輸出した。カナダがリカーポート専売公社で半分以上輸入してリカーポートで愛好家に分けた。結局当時の為替レートでわわなかった。いまはどうだろう。当時は1ドル360円、いま80円。為替からいくと出しやすいのか、出しにくいのか。下手な背伸びをしているのではないか。着実にいったほうがいい。日本の愛好かもレベルアップしているので、輸出は必要な人には分けることもいいが。市民生活を啓蒙してまで輸出をする段階ではないかと思う。経験からそう思っている。国会議員も応援するが、見通しの聞くものに補助金を出さないといけないと思う。
・ 認証制度を県でやってくれるという公約を取り交わしたがサントリーの吉田氏の意見を聞いて優柔不断で伸ばされ、「よくわかった」で終わった。影では政治が動いている。
・ 国会議員の中でも大蔵議員、一リッターで何円寄付をするという話もあった。大手は献金している。これはいいと思っても政治献金のほうに動く。これは人情なのかもしれない。中村太郎さんが大蔵政務次官のときだ。高野秀雄さんが原産地制度で大蔵省に陳情にいったが、話は聞いてもらったが何のこともなかった。企業としての人間の健康に貢献することで儲けないと本当の企業ではない。
・ 健康を台無しにしても儲かればいいというものではない。世界中もそうなのかわからないが、年をとっても人間はどういう群れに貢献して言ったらいいか悩むが割り切れないものがある。
・ 中国もそうであるが、イデオロギーはヒューマニズムの上に立脚しなければいけない。見せ場だけ作る形は人間社会を滅亡させていくのではないかと思う。人間の本性、いい意味で闘争する中でいいところを伸ばしていくようにしないといけない。
・ どろぼうとべらぼう、両方悪いと取られるほうも悪い。いい意味での競争をして議論していかないと人間社会はよくいかないと思う。
・ 明日に希望を持てる人生哲学で言ってほしい。だれかがやってくれるではない。政治も切り開く土壌、教育も大事だ、自治公民館活動は、石原さだえ先生が生み出したが、すばらしい考え方であったと思う。社会が動いていくことはすばらしいと思う。
・ 行政が苦労すると思う。みなさんの生き方をけん制することにもある。避けるようにしているが、完全なことはやりきれないと思う。


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2010年05月05日

明日への伝言 〜楽しく平和に生きる〜

次回の明日への伝言は綿塚地区の三沢行雄さんです。
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大正15年生まれの三沢さんは太枡騒動において惣代として寺社奉行に越訴し、困窮を極めた農民を救った三沢重右衛門の末裔です。
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勝沼フットパス スタッフの日記

戦時中は憲兵として軍役の統率にあたりました。

楽しく平和に生きることをモットーに今でも現役で畑を守っています。常に学ぶ姿勢を貫き、新聞や書物から得る時事情報は一般社会人も舌を巻くほど。

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また三沢家に残る文書も三沢家が名主であったことを物語っています。
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そんな三沢さんから、三沢重右衛門伝、幼少時代の綿塚地区の様子、戦時中のこと、綿塚に伝わる文化、これからの勝沼に期待することなどをお話いただきます。


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2010年02月11日

明日への伝言 〜見果てぬ夢〜

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■開 催 日  平成22年2月26日(金)
■開催時間  午後7時30分〜 投げ銭
■場  所  勝沼市民会館別館
■ゲ ス ト  深澤 通さん

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昭和4年勝沼町菱山村に生まれる。
父の事業の盛衰に翻弄されながら気が付けば在日米軍軍事法廷に立たされていた。判決を下され途方にくれるが、救いの手が。その後も人生の窮地に立たされるたびに道標となる出会いに救われる。やがて山梨県の果実の流通に尽力し青果業界躍進の一役を買う。70歳を機に退社、ワインを友にブドウ作りに明け暮れる日々を送っている。

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深澤さんは語ります。人の一生は表(おもて)で見るよりは裏で見るほうが、より的を射ている場合がある。表では見れない裏面の真実。正に私の一生もその様なものでした。

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2010年01月11日

終戦と生きる権利

今回の明日への伝言は東雲地区山村(山区)の甘利昭三さんからお話を伺います。
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昭和3年勝沼町東雲山村生まれる。
戦時中の昭和19年に徴用工として軍事工場でマグネシウムコンクリート船の造船に従事、その後人間魚雷の回天の製造にも携わる。終戦を迎え上官から生きる権利を説かれ生きることの尊さを心に刻む。根性、辛抱こそが自らを磨き、張りを持って生きることをモットーとする。我が道農業を貫徹し、その姿勢は揺らぐことがない。
現在は息子浩信氏の多角農業のよきアドバイザーであり、全ての雑用もこなすスーパーおじいちゃんである。

■開 催 日  平成22年1月19日(火)
■開催時間  午後7時30分〜
■場  所  勝沼市民会館別館
■ゲ ス ト  甘利昭三さん

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甘利さんのお話は強く私たちの心に響きました。
平和の尊さ、命の大切さ、忠実に生きることへの誇り、実際に体験した人でしか語れないその言葉はいつまでも私たちに残っていきます。






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2009年09月02日

勝沼宿と和菓子づくり

今回の明日への伝言は文化2年創業「松風亭本店」の六代目、佐藤茂幹さん(85歳)をお招きします。お店はすでに廃業をされ現在は隠居生活を送っていらっしゃいます。

戦前戦後と和菓子づくりに精を尽くし、勝沼の宿の反映を支えてこられました。「他の地域の人はしゅく、しゅくと言ってこぞって勝沼宿に買物にきたもんだ」と懐かしげに語る佐藤さん。

当時の宿を行き交う人々や祝儀や不祝儀における和菓子の並べ方や和菓子を買いに訪れる客の振舞いなどを佐藤さんからお話いただきます。

■開 催 日  平成21年9月9日(水)
■開催時間  午後7時30〜
■場  所  旧田中銀行
■ゲ ス ト  佐藤茂幹さん

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2009年07月18日

等々力村の今昔とワイン専門店「甲進社」 

今回の「明日への伝言」は、等々力の早川泰正さんから等々力村の昔の様子や経営するワインショップのことなど、ご自身の思い出を交えてお話していただきます。

早川さんは、長く旧勝沼町役場に勤務され、昭和の合併、高度成長、バイパス・中央道の開通など勝沼町の発展期に職員、助役、議員としてまちづくりに尽力しました。

特にワイン振興には情熱を注ぎ、ぶどうの丘の初代支配人を務めるなど、全国に向けたPR活動の先頭に立って活躍。一線を引いた後も、等々力の地域づくりや老人クラブ、恩賜林組合の活動などに携わり、80歳を過ぎた今も多忙な日々を送っています。

経営するワインショップ「甲進社」はワインを専門に扱うお店としては、町内でも草分け的な存在。お父さんの貫一氏は、太平洋戦争中に勝沼町長を務めました。
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■開 催 日  平成21年7月16日(木)
■開催時間  午後7時30〜
■場  所  ふれあい保健センター1階和室
■ゲ ス ト  早川泰正さん
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大正14年生まれの早川さん。まったくお歳を感じさせない豊富な知識と淀みの無いお話に参加者一同脱帽でありました。

そしてお持ちいただいた資料の数々、とても個人で収集されたとは思えないシロモノばかり。
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等々力村や山梨の当時の生活を偲ばせる貴重な文献ばかりで、そこには当時の人々の息づかいを感じ取ることができました。
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2009年06月05日

土屋龍憲が育てた大泉葡萄酒の歴史を語る

〜ワイン発祥の里で葡萄酒づくりに情熱を注ぐ前田澄也さん〜
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■講師プロフィール
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前田澄也(まえだ・すみや)さん:下岩崎在住、大泉葡萄酒且ミ長
昭和10年下岩崎生まれ。ぶどう栽培の傍ら、昭和30年から大泉葡萄酒の前身である”ブロック醸造所”「岩崎第三葡萄酒共同醸造組合」でワインの醸造に関わる。昭和38年、大泉葡萄酒株式会社となってからも醸造責任者として、地元産の甲州種によるワインづくりに情熱を注ぐ。「勝沼の地ざけ」というユニークな銘柄で、勝沼の甲州種ワインの普及に大きな役割を果たしてきた。大泉葡萄酒の前身「達磨葡萄酒有限会社」は明治38年(1905)創業で、104年の歴史を持つ老舗の醸造所、土屋龍憲が直接、醸造を指導したことが当時の写真や書類からうかがえる。大泉葡萄酒の歴史は、そのまま勝沼のワインづくりの歴史であるとも言える。今回は、達磨葡萄酒や戦後のワイン造りの苦労話をはじめ、土屋龍憲がつくったワインを試飲したという貴重な体験談などについて語っていただく予定。
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2009年04月18日

戦中戦後を生きて 〜富町の盛衰と思い出〜

今回は、勝沼地区の三森峯子(みねこ)さんをお迎えしました。
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勝沼富町に10代で伊勢から嫁ぎ、戦中〜戦後を生きてきた自身の体験や、映画劇場やカフェーもあり賑やかだった富町商店街のことなど、歴史を振り返りながら勝沼の将来に対する期待などをお話しいただきました。

開催日 4月16日(木)
開催時間 午後7時30分〜
場所 かつぬま文化研究所 (甲州街道沿い旧川口園)
お話 三森 みね子さん (丸美屋さん)
参加費 投げ銭 (目安300円)→運営・記録に活用します。
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●伊勢から甲州へ、17歳で嫁いで
関西弁が通じない・・・・


●戦中の田の管理
読めとして水見の苦労

●玉音放送の日
平和のありがたさ、窓から灯りが・・

●富町が賑やかだった頃
映画館やカフェーがあった頃

●経済成長で失われたもの
駅からの帰り道、真っ暗闇で声を掛けられて・・人の情けのありがたさ


☆話し手プロフィール☆

大正15年、三重県鈴鹿郡亀山町(現亀山市)生まれ。鉄道員の父と専業主婦の母のもと9人兄弟の四女として育つ。県立亀山高等女学校卒業後、大阪市内の裁縫学校で学ぶ。太平洋戦争中の昭和19年、母親の実家が祝村上岩崎にあった関係で、勝沼町富町の農家・三森太郎と結婚、勝沼へ移り住む。まったく経験のなかった農業に従事する。昭和20年、夫・太郎が沖縄で戦死。昭和22年、ニューギニアから復員した太郎の弟・今朝造と再婚、一男二女をもうける。再婚後、農業だけでは生活が苦しいため、化粧品や小間物を扱う商店「丸美屋」を開業、商売の傍ら、夫のブドウ栽培の手伝い、子育てにと励む。夫亡き後、82歳になる今も商店を続け、バイクに乗り配達をするなど現役として働いている。子供の頃から本が好きで、少女時代にはプロレタリアート作家であった小林多喜二の『蟹工船』などを隠れて読んだという。戦後、勝沼町の読書会に入会、その後「勝沼短歌の会」に所属し、生活に追われる合間を縫って、心のよりどころとして歌を作り続けている。戦前から戦後にかけて、仲町を凌ぐ賑わいをみせた富町商店街とともに生きてきた。映画館やカフェがあった時代についても詳しく、多くの思い出を持っている。


posted by 高安 at 21:38| Comment(0) | 明日への伝言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月18日

仲町と田中銀行

仲町にお住まいで田中銀行友の会の橘田智男さんと田中銀行友の会の皆さんをお迎えしました。


私が伝えたいこと
私は勝沼の歴史的な良さ、日本の良さを伝えながら、新しい文化に繋がればいいなあと思っています。でも今の勝沼をみれば私が知っている時代の人たち(すでは亡くなっている人も含めて)は「ずいぶん変わっちゃったなあ」と言うと思います。
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田中銀行友の会について
なぜ友の会を作ったか ここ田中銀行は平成10年に復元されました。せっかくもとの姿に戻ったのだから空き家にしていてはもったいない。留守番をしながら街道を歩く人たちに案内してみよう、ボランティアとして友の会を結成。半日ずつ交代でもう8年になりました。今では会員が少なくなり、亡くなった人もいます。
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それぞれ特技を生かして活動しています。向山さんはこの田中銀行の庭に花を植えて管理してくれている。水遣りも毎日30分以上かかる。私は花を育てることは苦手ですが、少しでもお手伝いをということで一週間に1回は私が水遣りをやることにしていますが大変。花を育て管理するということは生命を保つ尊いことを伝えてくれます。


ここにいる人は床を磨けば磨くだけきれいに輝くことを知っているから、みんな熱心に磨く。だから見てください、ここの床はピカピカでしょ。

また花が好きな人は花を生けて飾ってくれる。訪れた人にお茶は出してあげましょうということになっているけど、中にはお茶菓子や時期によってはぶどうなども振舞う人もいる。ここは原則的にはお茶しか出さないことになっているのですけどね・・・。

10月から3月までは日曜と土曜日の9時から4時まで、4月から9月までは以前は週に5日は開けていたのですが、会員が年をとって人数が減って今はそれほど開けることはできません。皆さん年をとって耳が遠くてお客さんに申し訳なく思います。ここにいらっしゃっている皆さんが後継者になってくれればうれしいのですが。

ここの当番の人は当番日記を書きます。「これを書いたってだれも見てくれないんじゃないか、書いたって仕方が無いんじゃないか」って言う人もいましたが。先日、高安さんがとってもうれしいことを言ってくれました。「この日記があと5年たって10年経てば貴重な資料になる」って言ってくれたんですね。私たちの実筆で、当番で気がついたことや街道を歩く人とのふれあいなど、きっと貴重な資料になりますね。

去年は大日陰トンネルが明けたのでいっぱい歩いてくれた。ワインツーリズムの時は約1000人が来るということだったので「どうしようか」と思ったけど皆さんまとまっては来なかったのでどうにか出来ました。

ここで若尾さんに代わって、もう少しここの活動について話してもらいます。

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若尾さんからのお話
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ここに来てくださる皆さんを3つのグループに分けて応対するようにしています。まず一つは建築の専門家や庭園の専門家や不動産鑑定士さんなど建物や庭や当時の設備や建具を見に来るグループ。御影石の切石の基礎も素晴らしいものということも教わりました。入ってきていきなりトイレを見に行く人も多いです。二つ目のグループはこの街道を完全装備で歩いてきます。街道やぶどうの里歩くことが目的。3つ目のグループは街道の町並みを楽しむ。建物と花をカメラに収めてかえる。ふっと立ち寄るグループ。それぞれの人に「何を求めて、どれくらい時間があるのか」聞いてそれにあった案内を心がけています。
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甲州街道勝沼宿の話は、続きます
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2009年01月01日

地域の歴史を言葉で伝える

明日への伝言

地域の歴史を実際に体験した当事者から直接話を聞き、後世に伝える活動です。


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地域の暮らしや伝統の行事や町並みなどの歴史的な情報の伝承が、少子高齢化や核家族化などにより途絶えることを防ぎ、私たちが取り組む地域づくり活動と歴史と合致させさらに活動の意欲を高めようする活動を目指しています。

またデジタル化された記録はアーカイブ保存し、まちづくりや学習に生かしていきたいと考えています。

〜NPO Koshuかつぬま文化研究所、かつぬま朝市、勝沼町CATV組合 口述伝承「オーラルヒストリー」活動〜
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posted by 高安 at 10:00| Comment(0) | 明日への伝言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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